インターネットから余分な知識を得て、等身大の自分を見失う事がマイナスなのです
私はミスターうずしおの袖の下に袖の下を小学生風に入れた。それは一匹のお洒落なミドリガメだった。確かにそのカメには、エアスポイラーはついていなかった。
そこにいなかった後藤田は憤然として伸びをしたが、そのときにも行われていた大根をおろすという作業からは、多くの箴言と素朴なサングラスの如きアルカリ天然水が体内から放出されたかのようであった、と私をして言わしめているかのようであった。
蓋し、征服というものは呪いの言葉を十分に浴びせかけた糸コンニャクを炎天下に放置するような犬のような猫に似ているところがあることに似ているところな頃である。
時節である。戻ってみても思い返してみても、柱に刻まれた今日のテーマはくさび形文字は包丁人の命と言えるか言えないか、それとも思い切って「好きだ」と告白してしまうか、というものとは程遠いと思う人種は差別されるべきか、
というものであったと、この本には書いていないと今になって分かったかどうか、というものだ。多分、そのはずだ。そもそも、多分というものにしてからが。多分。
「レイクサー、レイクサー」
大仰な合いの手が今にも零れ落ちそうな地球の集合となって二人の、いや、三人の、いや、三十五竿のびっくり手帳にびっくりさせられていても、びっくり手帳とは何だという疑問を忘れない無国籍風の日本刀のときめきよりも心を動かす富士額から、
飛び出たり飛び出なかったり泣きそうになったりしていた。それはもはや後ろを振り返っただけではビルを素手で破壊できない美術館の勤め人さながらに、
どろどろと音を立てずに屈折する敗北主義的なパンであることだ。つまり、一つの風船を三つに分けながら、血が詰まるような美人の鹿との陽気な挨拶においても、何でも記念にしようとする指を入れてみたくなるひたひたの正義感も、
それはまったく問題ではない豆腐好きのクリスチャンの声が聞こえる峠を超えられないのは一体誰だろうか。
私には分かっていた。固定されていた。しかし、それについては、ここでは煙を吐かせない。
久しぶりに元キャンディーズのメンバーに対する思いを成層圏あたりにまで高めていると、ふと庭をユニコーンに乗った達磨が闊歩している姿を目撃したので、
これは今年最後の夢芝居に違いないと確信した私は、遂に一昨年購入したデジカメの封を開け、アラーキー仕立ての抱負を取り入れた形で激写することにしました。しかし時既に遅く、
ユニコーンはユニコに退化し、ぴょっこぴょっこと庭を駆け回り、達磨は達磨で「選挙事務所はどこだ」の一点張りで全く話し合いにもなりませんでした。
あきれた私は仕方なくデジカメを懐にしまいこみ、そのまま屋上のプールに飛び込みました。しかし、時期は極寒の冬。一瞬にして凍死寸前にまで追い込まれた私は間一髪、その時偶然しめていた赤褌のおかげで一命を取り留めました。
いくら想像を絶する光景を目の当たりにした直後とはいえ、薪も割らず、電話も留守番モードにせず、家の鍵も閉め忘れた状態でヘリに乗り込んで東京遊覧散歩を決め込むことの危険を考えなかった私に落ち度がありますので、切腹して新年の挨拶に代えさせていただきたいと思います。