>>214
ライカビルにあった亜細亜産業に出入りする幹部なら、近くの八洲ホテルあたりが似合いだろうね。

昭和18年の亜細亜パルプ(京橋区銀座一)の定款にある株主名簿によると、岩本興次が世田谷区烏山、
林武一が芝区三田松坂町、大川理一郎・工藤孝次郎・矢板玄は横須賀市逗子町となっている。
日常的にそこで寝起きしていたかどうかは別として、本宅とは別に本社事務所に近い所に相応の定宿や
別宅があったんじゃないかな?

末広旅館は亜細亜配下の町工場の監督や職工が出入りするようなレベルだと思うよ。
むろん例外はあるだろうけど、高級な背広を着て外車で乗りつけるような宿じゃない。

>>182で指摘された「最後の証言」掲載の集合写真はどう見ても日本橋や銀座ではないから、
北千住・小菅・王子・十条・板橋あたりの亜細亜産業生産部かもしれないね。

謎の多い年賀状は、それが一枚でも現存していれば切り札になりうるんだけどね。
柴田母の遠い記憶のみで長島フクと書き添えた「毎年同じような図柄の年賀状」が昭和24年~昭和34年に
届いてたというが、昭和31年?に旅館を廃業してからも「末広旅館」の名前と住所が印刷されてた、という部分が、
昭和24年の当初から木版やゴム印のようなものだったとしたら?、たとえ家業が変っても柴田宏宛だけには
昔の版を使っていたなら?、なんて可能性もあるのでは?と妄想してしまう。

年賀状の絵柄や表記は宛先の全てが同じものとは限らないし、個別に違った絵柄や文言であってもそれを
毎年一枚だけ受け取る側には分からない。長島フクが方々に差し出した年賀状を一か所に集めて
比較されることなども無いから、あの時にお世話になった「末広旅館の長島フク」の挨拶であることを
柴田宏にだけ伝える目的なら、あるいはそういう配慮があったのかも知れない。

昭和40年代だったか、年賀状に手作りの芋版を作るのが流行った時期があったような気がするし、
木版も昔からあった。今でもそれを模した版画風のスタンプやカラー印刷も少なくない。
縦長の住所印もかなり古くからあったような気がする。地名由来の末廣旅館の所書きに最寄り駅の
五反野を使うのもさほど不自然とは思えないなあ。